駒テラス@西参道探訪記!

先週土曜、前々から気になっていた駒テラスに行ってきた。

ちょうど、イベント(糸谷八段×高見七段のトークセッション)もあり申込の上参加。

驚いたのは、トークセッションに来ていた30名ほどのオーディエンスの8割がたは女性だったこと。

トークセッションは楽しかったが本題ではないので省略。筆者は後の予定があったので、残念ながら半分ほどで途中退席。)

参道沿い・ガラス張りのオシャレな建物で、ふらりと誰でも訪れて覗きやすくなっている。

いわば(昔ながらの、「オジサン臭い」)「将棋」臭そのものが「脱臭」されているといっても過言ではない。笑

 

筆者の目的は、「将棋好き(=ここでは『将棋を指す人』の意)」の様子を見に行きたいというにあったが、むしろ現在の「将棋好き」の幅の広さを確かめに行くことになったと言える。

帰りに、お土産屋さんの建物で、藤井七冠(更新時点。扇子の署名は肩書なし)の「探究」を購入して帰途に。

 

 

ぴよ将ログ #5-2 観る将と、「強くなりたい」という気持ち

前稿では殆ど立ち入らなかった、「観る将」の位置づけについて、「強くなりたい」という気持ちとの関係で整理したい。

将棋を再開して半年(といっても対局や勉強の期間は正味3か月ほど)ほどだが、再開当初より、「強くなりたい」という気持ちは、間違いなく深まっている。

が、絶対的なものではない。前にも書いたが、「趣味として楽しむ」ことをあくまで目的にしているからだ。

ネット対戦も含めて、対人の対局は今のところしていない。所詮は、「AI相手に強くなる」という「限定された強さ」に過ぎない訳だ。

 

自分が「強くなる」と、当然ながら「観る将」のレベルも次第に深まっていく。

定跡書以外に、振り飛車系のプロ棋士の先生方の対局集もかき集めるようになった。

学習度は浅く実践にも踏み込んでないので、深くまで理解はできないが、とても勉強になるし、面白いのだ。

「こんな手やこんな戦型もありなのか。こういう展開に持って行けるのか」といった具合で。

この姿勢は、当然ながら、「自分が指す」という心理的前提での「観る将」に転じていることを意味する。

 

去年を振り返ると、この姿勢は明確でなく、「自分が指す」ことと、「観る将」の間に、大きな断層が開いていたといえる。(正確には、観る将がきっかけで、自分もぴよ将棋で指し始めた)

 

なぜか。「強くなりたい」という気持ちが今以上にあやふやで、「『自分が指す』という立場になって、局面を検討する」という姿勢がなかったからだ。

#5-1で振り返ったが、「自分の弱さ」を客観的に振り返ることが出来るようになっている時点で、やはり間違いなく少し「強くなっている」証であるだろう。

 

もう一つ、「観る将」には、不思議というか当然かもしれないが、「観るだけで強くなる」性質が間違いなくある。

「自戦譜振返り」は年初からテーマ感としては持っていたが、tubeやAbemaトーナメントその他を通じて、最新の棋界動向の理解が次第に深まっていった。

今テーマ感として持っている振り飛車も、「振り飛車党の先生方の棋風や戦法の違いはどのようなものか」を具体的に知りたくなったことが、新たな勉強法への突破口となったのは間違いない。

 

妙な言い方になるが、時間が経つと、「自戦譜もプロ棋士棋譜も、局面の検討においては同じ」という感覚になるのだ。笑

棋譜というのは、個々人の人格を抜いた、無機的な数式やプログラムと等価なものとして現れてくるのである。

自分の棋譜も、そうして突き放して観られるようになる。

 

雑誌「将棋世界」で、既に終わってしまったようだが、「イメージと読みの将棋観」という大好きなシリーズがあった。

同じ局面とか、同じ格言などを複数のトップ棋士に披露して、どのように考えるかを述べてもらう企画だ。

当然ながら、個々の棋士で、同じ局面でも読みに差=個性が現れるのがとても面白く、熟読していた。

ただ、これを長く読みふけっていたのはいわば「純粋観る将」で、「同じ局面を見て、自分ならどう指すか?」という視点は常にボコッと抜けていたのが特徴だった。

 

プロ棋士の中では、同じ局面を見て「自分なら先手/後手を持ちたい」という言い方をする。

当然ながら、常に、「自分が指すなら(優勢なほうを持ちたい)」という視点で表現をする訳だ。

「局面を検討する」というのは思考を伴うものなので、「ただ見るだけ」のほうがラクだ。これが「純粋観る将」の姿勢といっても良いだろう。

ただ、ずっとその姿勢のままでは当然「強く」はならないだろう。

 

自戦譜を振り返る際も、時間が経っているので、「良い手・面白い手とか工夫だな」とか、「何でこんな手を指したんだ?」とまさに「他人事」のように振り返ることが出来るようになる。

自分が指した棋譜なので、自分の財産には違いないだけでなく、そこに検討を加えることで、さらに資産を増やすことが出来るようになる訳だ。

 

将棋の「見る心理」「指す心理」というのはとても微妙な(マージナルな)もので、「自分が指すなら」という心理が入ると、そこに「強くなる」要素が急に現れてくるものなのだ。

「観る将」は便利なもので、心理状況により、「適当に見る」ことも、「真剣に見る」こともどちらも可能で許されている。

 

先日、プロ資格試験を受けることになった里見女流の会見を見ていて印象的だったのは、受験を決めたのは、「そんなに深く考えたわけではなく、ただ強い人ともっと闘ってみたいという純粋な気持ちから」との趣旨の発言をしていたことだ。

これこそがまさに将棋指し、そして「勝負師」らしい考え方だと感じた。

「プロ棋士である以上、『強い相手と指したい』という気持ちがなくなった時点で棋士人生としては終わりだ」という棋士の発言をどこかで見たが、これは全棋士に共通した心情だろう。

 

(ジャンプその他の)少年コミックの90年代バトル物では、「もっと強い相手に会ってみたい、闘ってみたい」というのが、類型化された主人公の心情と言える(今は主人公が様々な背景を背負うことにより、より複雑化しているようだ)

「勝負師としてのプロ棋士」は、基本的にそうしたシンプルな志向をもって将棋に向かっているということができる。

 

表現としてはシンプルなのだが、凡弱の徒にはいかに遠い地平かというのが分かるというものだ。

上でも述べたが、「強くなりたい」という気持ちはあるが、依然限定的なものだ。

「弱さが分かる・自分で気づける」ことと、「その弱いままではダメだ」という心理に留まっている。棋力が追い付いていないから、自信が伴ってない。

「強い相手と指したい」と思うからには、ある程度自分でも指せる自信がないとダメだ。

 

対人、それも対面の対局は、それこそ子ども時代以来やっていない。

対面の対局はとても緊張するし、負けた時の悔しさは半端ではない。

そこに行くと、AIとの対局は気楽なものだ。悔しさはなくはないが、対人のようなプレッシャーはないし、サクサクと指せる。

今は「弱い自分」にかこつけて、敢えて「井の中の蛙」に自らを封じ込めているともいえる。もっとも、今の自身に合う方法である以上、仕方はないのだが。

 

しかしそうした「拭えない弱さ」の片方で、「早くこの先に行きたい・見たい」という気持ちも間違いなくある。

年初に掲げた、「ぴよ将3段に勝てるようになったら、将棋ウォーズ進出」の目標は今でも有効だ。容易に前に進んでないというだけで。笑

これが、今のところの「強くなりたい」の気持ちの正体ということができるだろう。

その先、「強くなりたい」という気持ちが、どのように変貌していくのかはやはり楽しみではある。

「もっと広い世界に、強い相手を探しに行こう」という気持ちに、果たして自分もなっていくのだろうか。

4.8.2

ぴよ将ログ #5-1 「勉強法」・自戦譜振返り編

随分久々、半年ぶりの「ぴよ将ログ」更新となった。

実際、しばらく対局自体から離れていたからだ。

(うち2か月ほどは、「観る将」からも離れ、将棋にほぼ触れない時期も続いていた)

単純に、指し疲れ・満腹感を覚えたのでしばらく離れていたのだ。

 

恐らく今後も、このような付き合い方が続いていくだろう。

「短期間集中研究・対局→短期間ブランク(インターバル)→観る将(聞く将)再開→研究・対局再開」

のようなサイクルだ。

将棋に限らず、典型的「多動型」性格のため、「一つの趣味だけをずっと継続」することができない。

飽きたらしばらく距離を置き、リフレッシュ期間を置いたのちに再開、というほうが性に合っている。

 

ぴよ将も対局をぼちぼち再開したが、本腰を入れてというほどまで注力されていない。

「自戦譜振返り」に集中しているからだ。

それも含めて、今回は、「将棋の勉強法」について少し書いてみたい。

 

色々なところで言われていて極めて興味深いのは、「将棋の門外漢が驚くのは、『将棋の強くなる方法』には未だに確定した方法論がないことだ」という話だ。

ひたすら対局を重ねることか、棋譜並べか、詰め将棋か、はたまた今はAIをいかに活用するのか。強くなりたい者は、結局自分個人に合った方法を見つけて強くなっていくしかない。

 

最近再開したのは、主に「自戦譜振り返り」だ。

年初のぴよ将対局の棋譜が数十局は残っており、詳しい分析を行うことにしたのだ。

 

年初当時も、ざっと見返すことはあったが、体系的に深く踏み込むには至らなかった。

(対局の記憶が真新しいと、負けの記憶が蘇ってきて冷静に振り返れないこともある)

ただ振り返るだけでなく、同時に、kindle振り飛車関連の棋書を漁り、「戦法・戦型の比較」に着手したのだ。

 

時間が経って振り返ると、とても多くのことに気づける

・同じ振り飛車でも、戦法は一様でなく、色々な工夫を凝らしていたこと。

 

・CPのクセ。CPLVが上がっても、なくなる訳ではない。

・一方で、CPLVが上がった時の強さ。

 飛角銀桂の連携が取れている。

 LVが低いとその連携が弱かったり、手が遅かったりする。

 また逆に、自戦譜の負けた対局を振り返ると、そうした連携がなってないことも多い。

 

・CP高LV相手に、闇雲に指してしまっている。

 振り返る限り、最近も対局再開したLV23(二段)対手は、流れを見る限り、力にさほど差はない印象だが、あまり勝てていない。

 

・序盤で作戦負けしてしまっているのが現状。

 感覚だけで指してきたため、(「定跡」も感覚で覚えている程度で体系化されておらず)、個々の戦法・戦型に「思想がない」。

 戦法・戦型に関する基本的な考え方がなく、「こう指すと、このような局面になる(し、したい)」という主張のないまま指してしまっている

 

・自己の戦型の悪さ。駒の連携の悪さ、守り駒がバラバラにされやすい、攻め駒が変な位置から動かない・動けない死に駒になりやすいetc.

 工夫はしないといけないが、上の条件踏まえ、「序盤をどのような展開にしたいのか?」という主張を明確にする必要がある

 

・戦法・戦型別の勝率や指しやすさ。

 同じ振り飛車でも、囲いが穴熊では勝ちがあるが、美濃だとまだ少ない。

 その比較と、要因追求は現テーマの一つ。

 そして、各勝率をどう高めていくか。

 

・「定跡の勉強や暗記」は嫌いだし苦手。

 一方で、自身の中にテーマを明確化(例えば「◯◯の局面での駒の捌き方」「△△の戦法にした時の戦法・展開の比較」etc.)出来ると、棋書の勉強も楽しくスッと入ってくる。

 また、自戦譜の展開の整理なども楽しく、そうして「実践的に定跡を積み重ねる」のが向いている。

 

・「人から教わる」のでなく、上記のように、「自分で振り返り、整理し、テーマを見つけた上で、再挑戦する」スタイルが自らに合っている。

 「自分で気づいて前に進む」ことを好むし、それが最も伸びるタイプと言える。

 

・AIの活用法。「テーマとなる局面」をストックし、AIどうしに対戦させるというのはもう少ししたら試したいと考えている(現状は棋力が低く、基礎が十分とは言えないので、試してもさほど意味がないと捉えている)

 

・当ぴよ将ログ=「書く将棋」の重要性。

 細かく局面や戦型を検討したりはしていないが、自分の戦い方とか、その時々で持っていたテーマ感を振り返る上で、とても重要な役割を果たしている。

 「文章で整理したうえで次に行く」というのも、自分の中の勉強スタイルの一つ。

 文章に起こすことで、思考を省略できる部分が大きい。

 

将棋の勉強は時間がかかるのだが、とても楽しい。

「自分に合った勉強法を模索し、見つけていく」楽しみというものを、子ども時代には見つけられなかったし、またその環境も当時は十分にはなかった。

子ども時代に、現在のようなAI環境があれば、もう少し自分自身も強くなっていた可能性は高い。

今は、入口や方法論がとても豊富な、幸せな時代環境となった(一方でAI環境構築に金銭的な投資をすべきか・奨められるのか?という切実な問題も既に将棋普及者間で生じている)。

 

☆今回の勉強法の中で、「観る将」についてはほぼ触れなかった。後半「#5-2 」で整理したい。

4.8.1

Abemaトーナメント中毒w

この1週間というもの、YouTubeもマンガもほとんどそっちのけで、ひたすらAbemaトーナメントを聴き込んでいるw(あとはぴよ将を一日数番ペースで再開した)

更に、自宅用には第2回Abema女流トーナメント、ドライブ用には第4回Abemaトーナメントと使い分けする徹底ぶりだ。w (リアタイでは第5回Abemaトーナメントが始まっているが、もう少し進んで、コンテンツが溜まってから見始める予定)

1セット(5本先取最大9番勝負)4時間超と分量長大なのと、内容がどれも保証されかつ楽しみ過ぎることから、どのセットでも考えたり調べる必要なく選べる。

「思考停止」のまま「聞きっ放し」に出来るのはすごいメリットなのだ。w

いつまで継続するか・お腹いっぱいになるかはわからないが、今年最大の私的「ラジオ大賞」となるのは間違いないだろう

4.4.8

羽生さんがA級陥落という衝撃

今期降級がかかっていることは前から知っていたが、いざ決まってみると想像以上に衝撃を受けた

まだ将棋の中身は見ていない

「時代」の一言に尽きるのだろうか

 

今年来年辺りは、「AI将棋の発達以降、羽生将棋がいかに若手棋士に攻略されるようになったのか」を、将棋戦法史のテーマとして追ってみたいと思っている

このままで終わるとは思わないが、「羽生さんが若手棋士に対してどう巻き返すのか」というストーリーはまだ見えてない

羽生さんきっかけで将棋好きを深めた世代としては復活劇を見たいというのはもちろんある

羽生さんの現代将棋思想(というより「情報」思想)からは個人的に大きな影響を受けたが、羽生さんが若手棋士に対して大きく巻き返していくとしたら、再びその思想に脱皮、大きなupdateを迫られていくことになるだろう(というより、それがない限りは大きな復活劇は難しいのではないかと見る)

本来、若手が実力を存分に発揮出来る業界というのは望ましく喜ばしいあり方である。が、百戦錬磨の「超・超一流棋士」だろうと容赦なく淘汰される時代という点ではまさに「無常」を観じるのも事実だ

4.2.5

ぴよ将ログ #4 自己初段(Rt.1000)編!

ようやく、「自己初段」に辿り着くことができた。

CP初段にも、だいぶ勝てるようになった(勝率は3,4割くらいか)

(3級→2級→1級は、割とすんなりと上がれた。

 結果的に、「修行編」は「その1」1回きりで修了となった)

 

自己1級は、(特に初段と比して)宙ぶらりんな落ち着かない感じがあり、(「強くなりたい」よりは)「早く初段に上がりたい」という感覚があった。

四間飛車はある程度勝てるようになって落ち着いたため、向かい飛車に挑戦した

棋譜は、ほぼ「勝局」譜しか残さなかった

 「勝局」だけ、自分でも直後のみ振り返ったが、「勉強になる」ことが結構ある。

 CP対手もそうだが、自分の指し手でも、「こんな意図の、こんな手があったのか」と感心する場合がある笑

 自己満ではあるが、「強くなっている(のを実感する)瞬間」でもあるだろう

・対手Lvは、最初1級、後半は初段のみ(対手Lv二段はあまり指さなかった)

勉強するより、感覚で覚えて指し続けてきた、というところ。

・CPの指し手から学んで、「対手を嫌がらせる手筋」を指すようになった。例えば、桂馬や持ち駒の歩の使い方等。

・「対手の指し筋を読む」のが、(多少精度を増したことで)楽しくなってきた

・「角の使い方」が、前も今も最大の課題。

 常にうまく指しこなせていないし、対手角の利きも見逃しがち。

 戦型も「角交換」を絶対選択しないで済むものを選んで(逃げて)しまっている。

 そのせいで、指せる戦法の幅が狭まっている

 (これはきちんとした定跡の勉強が嫌いなこととも密接な関わりがあろう笑)

・つべでは、特に将棋放浪記を好んで見ている。自分はぴよ将で対局しながら「ラジオ視聴」(だから盤面は観てないことが多い)のみでも、確実に強くなっている実感がある。

 藤森五段の「おかわり君」「お尻ペンペン」「ブッチする」etc.独特の表現は、分かりやすくて面白い上、その指し方までがスッと入ってくる。

 「観るだけで強くなる」は、間違いなくウォーズ実況での卓越した表現力で実現されているだろう

 

初段昇段を期して、今後、CPLv二段、三段と上げていくに際しての目標を整理することにした。

振り飛車の中で、四間飛車、向かい飛車は、得意と言えるほどか分からないが、「こういう戦型で指したい」という像が、ある程度見えてきた。

自己初段では思い切って、中飛車、そして居飛車に挑戦することにした。

 

中飛車はそもそも指し方が分からず、居飛車は居飛穴以外はほぼ指してない(居飛穴なら多少CP対手に勝てるが、絶対ではない)

居飛車と言っても、矢倉と居飛穴以外に、囲いや戦型・戦法の知識がないのだ笑

両方とも、まだ「自分でどう指す・指したいか」というイメージが未形成なのだ

(振り飛車の中では、三間飛車は少し違う感覚なのでこれも指していない。CPLvを下げて試してみたい感じはある)

 

また、「勉強」の気分ではなかったため、しばらく、自戦棋譜や戦型の検討などはしないできた(これが「ヘボ将棋」たるゆえんである)

居飛車を指すようになれば、また自戦の振り返りや戦型選択にも幅が出てくるかもしれない。

中飛車は、CPが指してくることも滅多になく、経験どころか知識自体が全然ないといってもよい)

再度、自戦譜振り返りや、戦型の勉強に復帰したい。

 

前に書いた通り、「ぴよ将棋でCPLv三段に勝てるようになったら、将棋ウォーズ進出」を目標に掲げている。

ただ、上記の思い切った戦法転換を行うこともあるし、そうすんなりとはいかないだろう。

一応、「ぴよ将上でも、自己Lv.三段まで上げる」ことを目標とすることにした。

どんな地平が見えてくるのか。楽しみ半分、不安半分といったところだ。

 

☆プロ棋界の戦法史研究、またAI将棋研究に関しては、今後の展開のヒントは見つかったが、やや専門的となるため、恐らく当note上ではほぼ扱わない。発信するとしても別の手立てを考えるかもしれない。

4.1.12

ぴよ将ログ番外編 :「勝つ」ことと「強くなる」こと

前稿で、「『勝ち』を溜めたい」という表現をした。

これと、「強い」「強くなる」ことの違いが、少しわかった瞬間があったことが、その理由と関係している。

 

(「自分で指す」趣味としての)将棋を再開してまだ1か月余だが、間違いなく開始当初より「強」くはなっている。

開始当初は、殆ど勝てなかったLv.のCPに勝てるようになっているからだ。

 

ただ、「強くなる」ことと、「『勝ち』を溜める」ことにはやはりズレがある。

相手が弱ければ、「『勝ち』を溜める」ことは簡単になる一方で、「自分が強くなる」とは限らないからだ。

また、「勝負」「勝敗」(という「結果」)に拘ると、「内容」「過程」が疎かになる部分が間違いなくある。

それと「強くなる」ことと、「巧くなる」というのもまた違う。

これらについて、少し詳しく述べた上で、「自己初段」以降の展望について考えていこうと思う

 

「自分が強い(強くなる)」ことと、「相手が弱い」こととは違う。

「自分が強くなる」と、「相手の弱さ」が分かるようになっていく。

CPLV.1級は、前は勝てなかったが、今は結構勝てるようになった。

 

たぶんソフトに組まれたアルゴリズムにより違いが出るのだろうが、ソフトのクセ(による弱さと強さ)が、だんだんと分かってくるのだ。

「持ち駒の使い方」は、(ぴよ将に関しては)その特色であるといえる。

「攻め将棋」が特色で、こちらが間違った場合に対しては強いが、正しく受けると「無理攻め」になるような手筋を好んでくる。

あと、(恐らくもともとインプットされてるであろう)定跡的手筋には強く、こちらが少しでも間違うとそこを突いてくるが、定跡的手筋から外れたような手には(こちらから見ると)変な手や緩手を指してくるのでチャンスが出る。

CPのLvが上昇するにつれ、上の弱点が薄れていくイメージだ

勝てるようになる・相手の弱点が見えるようになるのは、うれしい一方で、物足りなさを感じるようにもなる。

「強い対手」と闘うと、「強くなる」のは間違いない一方で、「自分の弱さ」を思い知らされる怖さもある。(今CP二段・三段との対戦を避けているのはその怯え故だ)

 

次に、「勝敗・勝負という結果」と、「内容・過程の良さ」には距離がある。

分かりやすいところで言うと、「踏み込み」「挑戦」の有無ということだ。

(「強い対手との対戦を避ける」もそうだが)難しい局面で、敢えて挑戦せず、無難な(「敗けない」)手に「逃げる」ようになる。

 

よくあるのは、「CP対手に駒を殆ど取らせず圧倒して勝つ」ことを目指し、「早い段階での攻め将棋や寄せ」は避けるということだ。

これが今の(「受け将棋」としての)「戦い方・勝ち方」ということももちろん言えるが、対手をただ弄んでいはしないか、また、「どうせ勝ちは見えてるから」と終盤の読みが疎かになってはいないかという懸念もあるのだ。

 

そして、「巧くなる」ことと、「強くなる」こととの違いである。

今は棋書などでしっかり勉強した訳ではないが、CP対策をするうちに、定跡が自然と覚わっている面はある。

また、今は同じ戦法を繰り返してやっているので、その戦法に関しては間違いなく「巧」くはなっているだろう。

ただ、不慣れな戦法は、試しにやってみてもほぼ勝てない。

また、今は時間無制限でやっているから早指しなどは殆ど出来ないだろう。

「巧さ」は、「強さ」の一部を構成する要素に過ぎない。

 

自己初段になってからは、単に「『勝ち』を溜める」から、「強さ」を身につける方向にシフトしようと思う。

4.1.12