爛熟中の「エンタメとしての将棋」
Abema将棋は観たいと思いつつ、いまだに切り口を定められないままでいる
将棋界が、ものすごいスピードで先に行き過ぎていて、状況を追い切れないというのが大きいか
また、「将棋の楽しみ方」が広さも深さも格段に進化した。ライトな将棋ファンとして、うれしい反面、フォローの大変さもある
・藤井聡太を軸とするプロ棋界の世代交代と、地殻大変動
・現代将棋(戦法や戦型)そのものの進化と深化
・AI将棋の存在と、活用の定着
・「観る将」のオプションや視聴環境の充実
・対戦アプリやその実況動画の普及
・将棋コミックのタイトルの急増
etc.
「楽しみ方」が増えすぎてしまい、まさに「食い切れず、動けない」状況で止まっているといって良いだろう
将棋は「自分で指す」よりは「観る将(みるしょう)」を愉しもうとしているが、情報も選択肢も多すぎて溺れてしまっている
一つには、関心やテーマがまだ絞り切れていないところが大きい
「もともと羽生世代がきっかけで将棋や将棋界に興味を持ったものの、その後離れて、最近戻ってきた」口である
そもそも、いまだに現在の若手棋士動向の概要すら把握し切れていない。離れていた期間が長すぎ、抜けた部分の厚みが大きすぎるのだ
将棋は、「情報量の極めて大きい、贅沢な趣味」である。「たくさんある趣味の中の一つ」とするには、かけている時間量が薄すぎるということもある
現代将棋の複雑分化と同様に、「観る将」そのものも多様化を遂げている
「観る将」に求めていること自体は、割とはっきりしている。
「現代将棋の戦法そのものの歴史的変遷と、AI将棋が与えた影響と展望」だ。
ただ、テーマと研究対象が大きすぎる。また、体系的に深く研究した経験がなく、まだ基礎自体がない。今までが、「ライトなファンであり過ぎた」訳だ。「ライトなファンでしかなかったのが、(自分で指す訳でないにもかかわらず)割と専門的な研究をしようとしている」矛盾の狭間にいる
従来、「戦法の変遷」などというものは、自分で指す人(プロ棋士・アマ棋士)か、かなりの棋界・将棋戦法マニアしか興味がないものかと思われてきた
しかし、藤井ブームにより、大新聞の一面や社会面で、盤面や棋譜と、その戦法名までが記されるに至っている。これは、「観る将」ファンそのものの厚みと、将棋をめぐるメディア環境の瞠目すべき変化と言えるのではないか
そのようななかで、「遅れているな」という妙な焦りすら生まれている
ライトな関心(YouTubeや漫画を愉しみたい)と、マニアックな関心(戦法の研究をしたい)とが入り混じってうまく区分されてないことに、悩みの淵源がありそうだ
特に、マニアックな関心のほうは、時間だけでなく、頭脳を要する部分が大きい(「研究をしよう」としっかり覚悟を決めてる時しか入り込めない)
また、AI将棋活用が一般化された一方で、その実情自体については知らないし、自分でも使ったことがない。研究にはその利用が最も早道かつ必要であると頭で知っているにもかかわらず。
「指す」ことが目的ではない以上、戦法(史)研究については、アウトプット先の想定が重要になりそうだ。アウトプット目標をある程度定めない限り、いつまでも上の悩みが解決されないまま漂流せざるを得ないだろう
3.11.9